檀家専用 寺葬儀式

広宣寺・寺葬儀式のススメ

「2022年現在・広宣寺檀信徒のみ利用可能です」

動機

過去の葬儀は、地域によって執り行われ自宅葬が主であった。それが、1990年代バブル時期の頃から互助会関連の大手葬儀社が葬儀会館を建て始めた事で、手狭、手間がかかる自宅葬から、手間がかからず会葬の便も良い葬儀会館での葬儀に移行していった。この時代の葬儀会葬者は一般葬儀であっても50人~100人が普通であり、また、葬儀代金も数百万円が当たり前、祭壇の華やかさを競った時代だった。

2008年リーマンショックで経済がどん底に入り、景気低迷の中、社会の流れも個人主義の傾向が強まり、葬儀も今までのような派手な葬儀から、地味な密葬の傾向に移行していった。この頃あたりから、葬儀社が命名したであろう「家族葬」なる葬儀が現れたように思う。不景気が長引きデフレの世の中、団塊の世代が高齢化し始めたここ数年、マスメディアにて「終活」という造語を伴い、テレビ、雑誌等で葬儀特集が組まれた事で益々葬儀の簡略化が進み同時に価格競争が勃発した。

我々、僧侶側に於いても、葬儀社への営業、僧侶派遣会社へ登録し葬儀社の下請け業者となっている僧侶の存在。更に、マンション坊主という寺を持たない僧侶の業務的態度から、僧侶不信が起こり、派遣僧侶を使っていた側の葬儀社がマンション坊主の閉め出しをはじめる始末まで陥った。

このように社会の流れと共に、「変わる事が無いと思われていた葬儀の形態」が、変化し始めている。このままの流れが加速すると「直葬」(葬儀式を執り行わず火葬のみ)の更なる増加に繋がる事と思われる。だが、僧侶が直葬は葬儀では無いと声高に反対したところで説得性に乏しく打開策を示す訳でもなかった。今ここで、宗教儀礼の重要性を我々僧侶が、世間一般に説いていかなければ、今後益々、派遣された僧侶によるその場限りの宗教儀式の増加、直葬、ゼロ葬への流れが加速して行く事が想像出来る。

私は、この一連の流れから我々僧侶が、宗教儀式の重要性に気付き、真剣に向き合う事が必要ではないか。その中でも葬儀を寺に戻す事で、本来の葬儀式の形体に戻せるのでは無いかと考え始めた事が寺葬儀式を行う動機だった。

寺葬儀式の変遷

初期(2005年頃)
最初に取り掛かった事は、葬儀代金の交渉。この頃、ハブル景気は終焉を迎えたにもかかわらず葬儀業界は変わらず高額な葬儀代金を示していた。地元にある数件の葬儀社と交渉したが受け入れて貰えず。(本堂で施工した場合の葬儀代金80万~100万)

中期(2009年頃)
リーマンショックにより景気低迷。この頃あたりから葬儀業界にも価格破壊の波が。
ある新規葬儀社と繋がる事が出来た。

後期(2013年頃)
寺葬儀式を執り行うにあたり、新たな葬儀社(個人経営)との繋がりができ、当山での寺葬儀式が可能になった。

現在(2019年 〜
葬儀に関する全てを広宣寺葬祭部にて執り行っている。
菩提寺の住職が葬儀式の全てを司る葬儀が「寺葬儀式」です。

「2022年現在・広宣寺檀信徒のみ利用可能です」

「援助的葬儀」という葬儀の在り方

僧侶は葬儀をどのように捉え、葬儀を行う意味を考えているのだろうか。

私自身を振り返ると、対人援助を学ぶ前は「葬儀は、私が唱えるお題目、読経で故人を成仏させ、私の法話で、遺族に対して故人を浄土へ送る意味を説くのだ」と考え葬儀を執り行っていた。ほとんどの僧侶が概ね私と同じような考えで葬儀式を勤められていると思う。対人援助の観点から、僧侶は葬儀に於いて「遺族の身内を亡くした体験に視線を転じているのか?」私は、僧侶は遺族の体験に視線を転じていないと考える。なぜなら、遺族の体験に視線を転じる術を僧侶は知らないからだ。僧侶は、遺族の体験に視線を転じるどころか、遺族に対して法話での説得、励まし、共感をしている場合がほとんどだからである。その行為によって、我々僧侶は遺族からわかってくれない人として現れる。

これが、現在仏教界で問題視されている「仏教離れ・寺離れ・僧侶離れ」が起こっている原因ではないかと私は考える。では、僧侶は、遺族の体験にどのようにすれば視線を転じることができるのか? それは傾聴、対人援助論を学ぶこと。対人援助論を学んだ僧侶が、遺族の体験(苦しみ)に視線を転じ傾聴することができれば、僧侶が、葬儀を「儀式の現場」(業務)から「援助の現場」へと発想を転換させることができる。そうすれば、儀式そのものが、遺族にとっての援助の場になるのではないかと考える。

なぜなら儀式が始まる前に、傾聴をすることで、遺族は苦しみが和らぎ、軽くなり、なくなる。そして、遺族は儀式前に僧侶に傾聴されたことで、儀式中に気持ちが落ち着き、考えが整い、生きる力が湧くような自己の内省がおこなわれるのではないかと考える。実際、私がおこなっている寺葬儀式では、亡くなった時から葬儀が終わるまでの間、私と遺族が密に接していることで、いつでも遺族に傾聴をすることができる。

僧侶とは、相手にとっての現れであり、儀式という業務をする人ではない。相手に私が僧侶として現れた時、即ち僧侶が遺族に援助者として現れる葬儀こそが、援助的葬儀ではないかと思う。