先日、檀家さんがお亡くなりなった。亡くなった連絡を頂いた際、某大手葬儀社(セ○○)の互助会に入会していた事で、何の迷いもなくその業者に依頼済みだった。少なからず私とは因縁がある某大手葬儀社。連絡をくれた当家の長男と私は高校の同級生という事もあり、少なく見積もっても葬儀社に支払う金額だけで150万円はくだらない現在の葬儀事情を詳細に説明した。日程的にはまだ余裕があったので、家族と相談するように促し電話を切った。30分後、連絡があり私に全てまかせるという答えを貰った。
当山HPで告知している「広宣寺が提案する葬儀をベースにした内容」を彼に勧め了解を得た。通夜、葬儀には多くの会葬者が参列され、故人を偲んだ。その際、会葬者の誰もが、喪主に対し「とても良いお葬式で感動しました」という。言葉をかけていたそうだ。
葬儀会館等での葬儀は、便利で手間いらずなのかもしれない。それだけに無機質なホールに豪華に設えた祭壇が鎮座し、葬儀社が決めた流れの中でシステマテックに時間が流れて行くだけだ。そこには宗教的荘厳さや厳粛さは全く存在しない。寺での葬儀は、数百年間その地で唱えられたお題目が根にしみこみ、故人を霊山浄土へ導く荘厳さ厳粛さが満ちあふれ、弔問に訪れた皆さんとそれを共有出来る空間が存在する。それに人は感動を憶えるのだと思う。我々、僧侶もお寺で葬儀を出して貰える事で喪主を始めとする親族との接点も増え、葬儀を通じ、より一層関係が深まっていく事が実感できる。本来有るべき姿として寺葬をこれからも推し薦めていきたい。