増加
今日午前9時15分から葬儀式を厳修した。
式前の打合せを司会者としたやりとりの中で、最近、大手葬儀社の葬儀件数が減少しているのではないか?という話しになった。時間に余裕がある時、たまにこうして、現場で従事されている方と話しをする。会話から、いわば最も新しい情報を得る事が出来る。冒頭の件は、私も感じていた事で、実際、司会業は派遣が殆どだ。その仕事が減って来ているという事だった。転職も考えないといけなくなっていると聞き驚いた。しかし、話しによると何処の火葬場もほぼ毎日いっぱいだという事だ。葬儀が減っているが、火葬は通常通りあることは、いよいよ、葬儀の流れが直葬にシフトして来た事が考えられる。
この直葬だが、人によって受け止め方は違うものの総じて後悔の念が残るとも聞いている。葬儀に従事する人達から、直葬はやめて欲しい。という話しを良く聞く。彼等もまた直葬が異常な行為だと感じている事にほかならないのかもしれない。
太古の昔より、弔うという事は人間として生きた証しだとされて来たと思う。やがて物質文明になり、お金とモノが手に入れば幸せだということを植え付けられて来たのではないか?それよりも精神的充実感を得られなければ幸せと思えない。
葬儀もまた商売として成り立つものではないと思う。ある面、直葬の増加は、今だに葬儀を商売として考えている葬儀社への抵抗なのかもしれない。
いのち
先日、妻の知人が飼っていた犬が亡くなった。一年前に癌が発見され、その後それなりに元気にしていたそうだが、癌が再発してしまった。娘さんのショックが大きく悲しみの毎日だったそうだ。見るにみかれてかどうかはわからないが、ペットショップに飼っていた犬と良く似た子犬が居て購入したそうだ。先代犬が亡くなって二週間経過していなかったと記憶している。
時間の流れは個人によって感じ方は違う。娘さんにとっては、途方もなく長い時間だったのかもしれない。愛犬の死を看取り、死というものを感じ知る事が大事ではないか?せめて1ヶ月くらいは亡き愛犬の事を考える時間があれば、愛犬の死を受け入れる事も出来たのかもしれない。いのちが終わったら、また直ぐ新しいいのちを手に入れれば良い。という考えにだけはならないで欲しい。
信仰
昨日早朝、「主人が亡くなりました」と訃報が入った。故人は、檀家という括りに属さない方。「葬儀は、主人が家族葬でして欲しい。と生前に申していました」という事だった。奥さんの年齢(80代中盤)を考えると、主人が妻に葬儀の心労を少しでも減らしたいという配慮だったと思う。
十数年前、葬儀社が「密葬」の代用用語として考え出した「家族葬」というネーミング。
いざ、葬儀を出す段になると喪主は、その定義に戸惑いを憶える。少し前では会葬者を減らし家族・親族だけで執り行う意味合いがほとんどだったが、今では「家族葬」=「葬儀費用が安い」と変化していっている。葬儀社のうたい文句にのり、家族葬を出したものの葬儀社が広告で出していた値段とはかけ離れた請求が来る事が、今でも多々ある。
日蓮大聖人は御遺文の中で「臨終の事をまずなろうて候べし。後に他事を習ろうべし」とおっしゃっている。
瀧本光静上人の解説では。
= まず先を定めよ。
逆算して今を生きよ = 日蓮
今さえ良ければ。
も悪くないけれど、それは
「今が楽しくって良い状態」
の時だけ通用する価値観。
「臨終」終わりに臨むこと。いつか迎える時の為に今と、自分の最期を考えないとならないと思います。
横浜へ
先代師父上人の信者さんからご法事の依頼があり、今朝7時台京都発のぞみで新横浜へ。
連休初日ということもあり、のぞみの座席は全席満席。ご自宅のある、あざみ野まで約2時間強で到着。11時よりご法事を勤め、お食事を頂戴し17時半に帰宅しました。
新幹線があるおかげで、横浜まで日帰りで法事を勤められました。明後日は、岡山の親戚宅で法事を勤めます。
大荒行堂開堂
11月1日遠寿院大荒行堂が開堂した。今年の入行僧13名。翌年2月10日までの100日間水行、読経に明け暮れる。全員無事に行を全うして頂きたい。
ボイストレーニング
10月29日大阪市円妙寺様にて、大阪市声明師会主催ボイストレーニングがありました。
今回で通算五回トレーニングを受講しましたが、たかが声、されど声。奥が深い。自分の身体でありながら各部をうまく使えないもどかしさを感じます。言い換えれば、一生で各部の全てを使わず人生を終えるのかもしれません。基本を反復練習する事が最も大事な事で、出来なくても諦めず継続する事が大事だと感じました。
日々精進!