BONZEブログ

2018年の記事一覧

2018年大晦日

皆さまにとって今年一年はどういう一年でしたか?
「良い年だった」「悪い年だった」「良いこともあったが、悪いこともあった」等、様々な想いの中一年が終わります。

ふと、考えてみると「良い年とはどういう年なのか?」または「悪い年とはどういう年なのか?」と考えた時、どちらもあてはまるように感じます。なぜならば、ずっと良いことも無いし、ずっと悪いことも無いと考えるからです。それは、ずっと良いことが続いた時「このままずっと良いことが続いて欲しい」と想う欲に満ちた私が現れ、「良いことが終わってしまったら悪い事が起こるとどうしよう」という不安に満ちた私が現れる。しかし、どちらの私も私である。そう考えた時、私の意識の志向性がどちらに向くかで私の現れは変わるということでは無いだろうか?

私事では、今年下半期は地震、台風の自然災害に見舞われた年だった。寺に被害はあったものの修理できる範囲の被害で終わったこと。災害に見舞われたことを知った檀信徒他有縁の皆様から災害見舞いを頂戴したことで早期に修理が完了しました。災害に遭ったことで建築物に被害が及びましたが、皆様の寺に対する想いが、災害見舞いとして現れたことに驚き、これだけの方達が見守ってくれていることを実感出来ました。

全ての物事は表裏一体である。しかし、表裏一体と観るには自然的態度を一旦停止することが求められる。それが今年の災害によって自然的態度が一旦停止したことで深く考えることができたと想う。

2019年は、たとえ成就しなくても小さな目標を沢山掲げて進む一年にしたい。

広宣寺葬祭部

広宣寺葬祭部
9時30分 40年来のお付き合いの檀家さんの葬儀式。
お参り時良くお話を聴かせて頂きました。特に印象に残っていることは「自宅で亡くなりたい」と話されていたことでした。ご主人が亡くなった後、お一人で暮らしていられた。ご自分の死生観をお持ちだったことから「自宅で亡くなりたい」という想いがあったのだろう。それは叶わなかったが約1ヶ月の入院生活時、食事を摂らなくなり自然な流れで死を迎えられた。

 

湯灌の準備
広宣寺葬祭部では湯灌を致します。

本堂内漆喰壁工事完了

約一ヶ月をかけての本堂内壁工事が11月2日終了しました。
漆喰壁表面を落とし、漆喰は残したまま木枠を作りそこに合板をはり、合板の上に石膏ボードを貼り付け、表面をパテで形成し塗装をしました。今までとは違い漆喰だけで柱間を支えるのではなく、漆喰、合板、石膏ボードで壁にしたことで地震の揺れに対する強度は増したと推測されます。しかし、強度が増したことによって、他の部分に応力が生じる恐れはあります。しかし、耐震とまではいかないかもしれませんが、地震に対する対策の一つとなったことと思います。

 

本堂内漆喰壁工事進行中

順調に本堂内壁工事が進んでいます。

漆喰は残して柱と柱の間に枠組みをして合板を貼り付けています。

 

少し耐震にはなっているかもしれません。

本堂内漆喰壁修理が始まりました。

6月18日大阪北部地震で、本堂内漆喰壁に被害がでて約6か月経過しました。出入り業者には、緊急事態の現場を優先し当山の修理は落ち着いてからで結構と伝えていました。

それでも業者側が気を使ってくれ、一昨日から工事が始まりました。漆喰壁を全て落とし、その後に石膏ボードを貼ります。理由は、ほんの少しでも本堂の耐震になるかもしれないと考えてのことです。これから1ヶ月かけて壁を全て石膏ボードにします。砂塵が舞って大変です。

墓じまいを考えてみた・・・

「墓じまい」
背景
戦後1955〜73年の約20年にわたり高度経済成長期、若者は働き手として地方から都会へ就職していった。これが核家族の始まりである。核家族化は今までの家制度から個の時代へと形態を変化させた。その現象は墓地にも現れ1970年代以降、自身の墓を建立する人が多く都会では慢性的な墓地用地不足が続いた。昨今、団塊の世代が親を送る時代に入ると共に自身の逝き方も考える時期に入った。その団塊世代が親を送り、墓の面倒をみる。しかし、自身が逝ったあとは墓はいらないという人が多い。なぜなら、何の目的で、何の為に、どのような気持ちで墓参を行ななう意味がわからない。そこで、自身がそうであるから、子供にもこういう苦労はさせたくないと考えるのだろう。それにより、自身が墓を持たず何処かで永代供養されれば子供には迷惑をかけないで済むと考えた。ここで問題は、親世代が建立した墓の処理をどうするのか。このニーズに業者が応えるカタチのネーミングとして「墓じまい」を打ち出した。

仏教的な考え方から観た墓じまい。
仏教の時間論から「墓じまい」を考える。

仏教の時間論は現在が最も重要視される。なぜなら現在の自分には色々な可能性を秘めている。それを過去から解きほぐし、現在に呼び起こすという論法である。それは、現在の在り方の中に過去も未来も含まれている。現在の自分は、遥かな過去からの総決算として今がある。現在の自分がいかにあるかによって未来は決まるということだ。
この論法に墓じまいという行為を照らした場合。墓じまいをするということは、遥かな過去があるからこそ、今自分がこの世に存在している。先祖の一人が違うだけで今の自分は存在しないということになる。それはまさに「受け難き人身を受け」ということではないだろうか。自身が現在に存在している現れを実体化したものとして墓の存在があるのではないか。なぜなら、人は墓参をすることで心が落ち着くという現象がある。現在の自身の行いを墓参という行為によって、過去を解きほぐし、現在に呼び起こし反省し未来を考えるのではないかと考える。仏教的時間論から考えるに自身が墓を無くすということは、遥かな過去を消去してしまうことになるのではないか。なぜなら、次世代の子が、墓参をすることをなくすことで、現在を問うことが出来なくなり自身の存在の意味を考える場がなくなるのではないかと考える。ニーズから発生したブームはいつか終わりがくるだろう。ブームに惑わされることなく考える必要があると想う。

被災地での傾聴ボランティア

8月30日 倉敷市真備町、総社市にある避難所へ傾聴ボランティアに行って来ました。参加傾聴僧5名。ボランティア活動をしている私の友人にアテンドをお願いし、真備町は薗小学校、薗公民館。総社市は穴栗地区避難所の二ヶ所で被災された方のお話を聴かせて頂くことができました。私は、避難所で生活されている方2名、自宅から避難所へ来られている方、避難所の受付業務支援新潟市教育委員会に勤められている女性職員、真備町に戻り災害支援で派遣された下関市職員の方のお話を聴かせて頂くことができました。話された内容は守秘義務があり記せません。被災された方、支援する自治体の皆さん、ボランティアの皆さんに苦しみがあります。「聴くことは、それだけで援助になる」「援助とは苦しみを和らげる、軽くする、なくする」今回の活動は、相手の方の主観的な想い、願い、価値観が変わることを支えることになったかもしれない。

 

平成30年度盂蘭盆施餓鬼法要厳修

8月16日11時より 平成30年度当山盂蘭盆施餓鬼法要を厳修しました。  当日台風の影響で雨の予報でしたが、幸いなことに法要前後に雨は降りませんでした。今年も法要が平日開催になりましたが、檀信徒の皆様で堂内がいっぱいになりました。これで当山の盂蘭盆行事は終了しました。