BONZEブログ

2019年の記事一覧

平和の祈り

午前10時30分より 立正佼成会豊中教会会員の皆さんと「平和の祈り」を当山で開催しました。なぜ当山で平和の祈りを開催することになったのか?今年春に縁あって立正佼成会会員の方の葬儀を当山にて勤めたことがきっかけでした。平和の祈りとは宗教.宗派にとらわれず共に平和の祈りを願うつどいを、1970年頃から続けられており、そのつどいを各教会単位で行なっているそうです。今回、寺葬儀式に会葬していた支部長さんが寺葬儀式に参列し感動されたことから、当山での開催を希望されたことで実現しました。
今回平和の祈りの流れは、私から提案を行い法要、法話、対話の会と三部構成で行いました。
法要は立正安国世界平和を祈願し、法話「六道と意識」、対話の会は参加者23人を4グループに分けM上人、S上人、N上人と私が各グループの進行役をつとめました。対話のテーマは「六道と意識」の法話から六道や意識を考えて頂きました。
私が担当したグループでは、お一人の女性が幼少期の体験を語られたことから、その語りをベースに六道を深めていきました。体験を語られた女性の意識の志向性は何を明らかにしたいのか?更に問いかけ対話を深めました。
会を終えての私の感想は、法要中は緊張感があり、対話の会では終始対話が途切れること無く、皆さん考えること、語ることを楽しんでおられました。
未知なる取り組みでしたが開催してよかった、皆さんの役に立てて良かったと思えました。

 

 

 

坊さんも苦しんでいる?

11月8日第49回教化研究会議が大阪市内で開催された。

鈴木隆泰先生 基調講演「仏教におけるいのちとは」

「いのち」と、ひとことでいっても人それぞれの考えによって現れは変わるだろう。

心臓とイメージする人もいるだろう、魂とイメージする人もいるだろう、霊魂とイメージする人も

いるだろう。しかし、これは「いのち」に自分の意識が向いた時にイメージされる。意識が向かない

限り、日々の生活の中で「いのち」を意識することはないと思われる。

なぜなら人は日々の生活に追われていて、一旦立ち止まって「いのち」を考える余裕がないのだ。

基調講演で印象に残った言葉は「信」であった。

宗教の教えは「信」に支えられている。「信」を持つ人によって継承されているのではないか。

いつの時代もそうだと思うが「信」がない人は存在する。

現代は宗教的な「信」があると、その人は変わった人と見られる傾向があるのではないかと

思う。その傾向からか宗教的な「信」を持たない方が増えてきているのではないか。

なぜなら「仏教離れ、寺離れ、僧侶離れ」が加速していることからもわかる。

だが、仏教離れというが実は仏教に興味があるという人は多い。いつの世も仏教は

人々の苦しみを和らげ、軽くし、なくする教えなのだ。次に寺離れはどうなのか?現在も寺は

檀家制度によって生きながらえている。しかし、高度成長期に若い世代が都会へ移動したことで

家制度から核家族という家族形態が変化したことで、地方寺院は過疎化による檀家減少に直面

している。都心部では核家族化による檀家制度の崩壊による檀家減少が起こっている。

最後に僧侶離れだが、私もその一人だが、世俗に染まっている僧侶像が世間に溢れているからではないか?なぜなら寺を維持していくことを第一に考え、法務の業務化が進んでいるのではないか。

それは、お坊さん便等の僧侶派遣業に現れている。しかし、派遣業に従事している僧侶は派遣業務を布教だと考え従事しているという。それを一概に批判できるのか?いやできない。

なぜなら法務が業務になっていることに気づかない、私も含む大多数の僧侶の存在があるからだ。

 

 

 

 

 

生きる

天災がおこらず平凡に日々を送っていると、生きるとはどういうことかと考える。天災がおこり、日々の生活が失われてしまった時に、生きているとはどういうことなのかと考えてしまう。

受け難し人身(にんしん)を受けることは、同時に苦しみを伴うものなのか。

祇園で

昨夜は「お坊さんナイト」があり、祇園ギャザーに行ってきました。

今夜の担当僧はOさん。
彼女とは傾聴僧の会、対人援助研究所で共に学んでいる仲間であり、
ソーシャルワーカーとしても活躍されている方です。

恋は煩悩。
恋の結末は「歎異抄の中のお言葉に救われた」
仏教的見地から恋を観る。

途中で席を立ちましたが、更に話しは深くなっていったのか?
うーん 残念!

大塚さん お疲れ様でした!

 

長い付き合い

K上人とは小学生の頃僧風林で出会い、大学四年間を共に東京で過ごし、かれこれ40年の付き合いだ。これも同じ僧侶でいるということと、趣味趣向が合っていることも長く続いている要因のひとつかもしれない。

聴かない人

毎月月例法要後、僅か10分弱の法話をしている。

良く聴いてくれる人、聴いているかどうかわからない人、聴きたくない人、聴かない人の区別ができる。聴いている側はわからないと思うが、話す側にはその姿勢は良くわかるのだ。なぜなら絶対数が聴く側なので、話す側の気持ちを理解することは不可能だからだ。

聞くと聴くの違いは何だろう?

聞くは、音声のみを聞いている。

聴くは、耳で聴き、目で聴き、心で聴く。相手の方の聖なる語りを聴く。

聞くではなく、聴く姿勢で法話を聴いて頂ければな。それには、法話の内容をより良いものにしなければならない。

当山 令和元年度秋季彼岸法要厳修

9月22日10時より  秋季彼岸法要厳修致しました。

台風接近で、雨と風を心配していましたが台風の影響を受けず

法要を終える事が出来ました。

ただ、残念なことに参拝者が少なく少し寂しくて感じられる

法要でした。2週続けての連休の影響が多々あるのかもしれません。

法要後、先祖と自分との関係をお話しさせて頂きました。

 

令和元年度秋季彼岸会法要

明日9月22日10時より  当山秋季彼岸法要を厳修致します。

台風の接近で明日の天気は読めませんが、沢山の皆様の

法要への参加をお待ちしております。

 

9月20日13時 彼岸入りに法要を厳修された伊丹市本泉寺様のお手伝いが

ありました。

 

 

 

網膜剥離手術

7月16日網膜剥離硝子体手術を受けた。

術後2か月順調に回復をしている。

と60年ほど前だったら、現在の硝子体手術は無かったと思う。

そう考えると網膜剥離になると術がなく失明することになる。

生まれた時代によって人生が左右される。