墓じまいを考えてみた・・・
「墓じまい」
背景
戦後1955〜73年の約20年にわたり高度経済成長期、若者は働き手として地方から都会へ就職していった。これが核家族の始まりである。核家族化は今までの家制度から個の時代へと形態を変化させた。その現象は墓地にも現れ1970年代以降、自身の墓を建立する人が多く都会では慢性的な墓地用地不足が続いた。昨今、団塊の世代が親を送る時代に入ると共に自身の逝き方も考える時期に入った。その団塊世代が親を送り、墓の面倒をみる。しかし、自身が逝ったあとは墓はいらないという人が多い。なぜなら、何の目的で、何の為に、どのような気持ちで墓参を行ななう意味がわからない。そこで、自身がそうであるから、子供にもこういう苦労はさせたくないと考えるのだろう。それにより、自身が墓を持たず何処かで永代供養されれば子供には迷惑をかけないで済むと考えた。ここで問題は、親世代が建立した墓の処理をどうするのか。このニーズに業者が応えるカタチのネーミングとして「墓じまい」を打ち出した。
仏教的な考え方から観た墓じまい。
仏教の時間論から「墓じまい」を考える。
仏教の時間論は現在が最も重要視される。なぜなら現在の自分には色々な可能性を秘めている。それを過去から解きほぐし、現在に呼び起こすという論法である。それは、現在の在り方の中に過去も未来も含まれている。現在の自分は、遥かな過去からの総決算として今がある。現在の自分がいかにあるかによって未来は決まるということだ。
この論法に墓じまいという行為を照らした場合。墓じまいをするということは、遥かな過去があるからこそ、今自分がこの世に存在している。先祖の一人が違うだけで今の自分は存在しないということになる。それはまさに「受け難き人身を受け」ということではないだろうか。自身が現在に存在している現れを実体化したものとして墓の存在があるのではないか。なぜなら、人は墓参をすることで心が落ち着くという現象がある。現在の自身の行いを墓参という行為によって、過去を解きほぐし、現在に呼び起こし反省し未来を考えるのではないかと考える。仏教的時間論から考えるに自身が墓を無くすということは、遥かな過去を消去してしまうことになるのではないか。なぜなら、次世代の子が、墓参をすることをなくすことで、現在を問うことが出来なくなり自身の存在の意味を考える場がなくなるのではないかと考える。ニーズから発生したブームはいつか終わりがくるだろう。ブームに惑わされることなく考える必要があると想う。