BONZEブログ

"日々のこと"の記事一覧

遺骨はどこへ?

2/15の予定はタイトでした。
am9.00安産祈願、am10.00一周忌法要、am11.00満中陰法要。施主さん達と食事、pm6.00葬儀会館にて通夜式。
葬儀会館に入る前、高槻市斎場に寄り8寸骨壺を買い求めました。これは、昨今の葬儀社は、何故かわかりませんが5寸骨壺を用意しています。このサイズだと全骨を収骨する事が出来ません。残した遺骨の行先は何処なのでしようか?考えた事はありませんか?

友人である住職のはなしでは「かつて尼崎市の弥生が丘斎場(額田の火葬場)の職員に訊いたことがあります。収骨しない遺骨はどこに持っていくのかと。
能登半島の方に持って行って埋葬するとか言っていました。真偽は不明です。
第一生命経済研究所ライフデザイン研究本部主任研究員の小谷みどりさんの講演を聴いていたら産廃扱いだと聞いたよう記憶しています。」という事でした。
私は、檀信徒の収骨には必ず立ち会い全骨を収骨しています。

8寸骨壺
8寸骨壺

距離感

昨夜、前回のブログ記事の喪主さんの通夜式をお勤めしました。
その中で感じた事ですが、葬儀社依頼の一見の葬儀では、喪主と顔を合わすのは通夜式直前。コミュニケーションを取る努力はしていましたが、思ったようには行かない現実がありました。それでは、喪主との距離感は遠いままで葬儀式の意義を伝える事ができませんでした。しかし、今回喪主と事前相談事から顔を合わせている事で、コミュニケーションが取れ喪主との距離感が縮まっている感じがしました。

如何に我々僧侶が喪主、親族と少しでも時間を共有出来るかが重要だと感じた通夜式だった。これが、後々グリーフケアへ続くのだと思う。

10万~15万円で・・・

昨日、当山の葬儀をおまかせしている博益社さんに、今回の葬儀費用の支払いに行って来た。支払いを済ませ事務所で歓談している時、葬儀相談の電話が入り、社員に代わり社長が応対をおこなった。話の内容から、自宅死亡、死後2~3日経過しており司法解剖に回るとの事。また、自らの経済状態から葬儀を10万~15万でして欲しい等の内容だった。巷で流行りだした火葬のみの直葬(ちょくそう)であってもかかる経費を計算すると、希望する金額では出来ない説明を社長はし、相手方も納得したのか? 20分後に会社へ伺いたいとの事で電話が終わった。

昨年より、私は葬儀社へ葬儀の事前相談へ来る方の生の声を聴いてみたく、年が明けたら事前相談の場に立ち会わせて欲しいむねをお願いしていた。それもあって、今回の方の相談に立ち会わせてもらうことになった。
社長が、再度葬儀費用の説明をし、喪主になる弟さんの意見を聴いたところ、提示した金額は、「親戚が葬儀に金をかけるな。10万か15万で出来るはずや。」とのお達しがあった事で、何もしらない喪主は葬儀社数社へ連絡し金額を聴いていたとの事がわかった。喪主としては、親戚が提示した金額では、葬儀は出来ない事を把握したうえで博益社を選んだという事だ。最終的には、通常の葬儀を執り行う事に決まり、菩提寺も無ければ信仰し属している宗派、教団も無い事から同席していた私が葬儀導師を勤める事になった。

経緯としてはこういう流れだったが、まずもって親戚の認識があまりにも常識からかけ離れている点だ。しかし、これは現在の世相の現れであり、テレビ、雑誌で取り上げられた葬儀特集の拡大解釈版と言わざる得ない。きっと、このような事を知っていると思われる人から聞きかじった程度の知識を自分なりに解釈しひけらかしたと思われる。本人は、よかれと思った対応だったと思うが、弟さんは兄さんの葬儀を出して送ってやりたいと
いう気持ちだった。それが最優先される事を考えてあげる事が大事なのに、金を使わさないようにする事が最優先では無いように思った。

本当に、智慧の無い大人が増えた。増えたというより、そんな人が世の中の大半を占めるようになっている。
これを打開していく手立ては無いだろう。それは、敷居が高く一般人にとっては無縁の寺へ誰が足を向けるのか? しかし、私は我々僧侶がその場に出向き生の声を聴くことで、ほんの少しだけでも葬儀に対する考え方の道しるべになれればと思い、今年から事前相談の場に立ち会わせて頂く。

臨終って言葉は知っているけど・・・

 

臨終は臨命終時(りんみようじゆうじ)の略語で「命終の時に臨んで」とよみ、死期せまって命の終わるまぎわのこと。正念は邪念・妄念の対語で八正道(はつしようどう)の一つ。心が散乱動揺せずに安定し正しく仏を想念し続けることをいう。迷妄を断って正しいさとりの智慧を得ることが仏教徒普遍の願いだが、死期に臨んで心乱れて邪念を起すことなく、平常心を持続し仏道成就を正しく念じつつ死を迎えることをいう。
八正道(1)正見=正(ただ)しく四諦の道理を見る。(2)正思惟=正しく四諦の道理を思惟する。(3)正語=妄語等を離れ正しい言葉を使う。(4)正業=殺生等を離れ、正しい行いをする。(5)正命=身口意の三業を清浄にし、正しい生活を行う。(6)正精進=仏道修行に励む。(7)正念=邪念をはらい正道を念ずる。(8)正定=清浄なる禅定を行う。
特記しなければならぬのは若き日蓮聖人が仏教を学び出家の道へとかりたてた要因が「されば先臨終の事を習て後に他事を習うべし」ことにあったことである。切なる問題関心として聖人は「臨終の事」に思いをめぐらし、そのことに対応し超克する仏教として法華経信仰に到達したのであった。かくて聖人は聖人の教えが臨終正念であって死後の救済を約束ずけるものであることを門弟に教示する。
※守護経に曰く(地獄に堕ちるに十五の相、餓鬼に八種の相、畜生に五種の相等云々。
※天台大師・摩訶止観「身の黒色は地獄の陰(おん)を誓う」

※臨終経
病者命終の時に臨んで、正念を忘失せぬように祈念する式のこと。まず室に曼荼羅を奉掲し、香を薫じて病者を頭北面西に寝かせ、日頃より信頼する導師を招いて、同座の近親と共に読経唱題し正念を持続させるようにおつとめするのである。

※妙法経力 即身成仏
法華経の経力によって即身成仏することをいう。日蓮聖人は妙法蓮華経の功徳を十界互具論・一念三千論・題目功徳論・妙字功徳論・法華経功徳論・仏種論等によって論証し、五字に仏果を具足するゆえに五字の受持によって即身に成仏を実現するとされた。即ち『観心本尊抄』には具足の証文として三経四疏をあげ「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等この五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(定七一一頁)と述べられている。釈尊出世の本懐たる法華経は、衆生成仏の大法であり、末法今時においては妙法蓮華経の五字七字として結要し留め置かれた。妙法五字七字は教主釈尊の因行果徳を具足するゆえに、妙法五字の受持によって、我らは自然に因果の功徳を譲与される。このように妙法五字受持の当所に即身に仏果を得るのが受持譲与の教えである。「現世安穏 後生善処」

平成26年度秋季彼岸会法要厳修

当山彼岸法要前
当山彼岸法要前

 

資料を作製しました
資料を作製しました

法要終了後のお話用に資料を作製しました。

平成26年9月彼岸法要資料
此岸 →   彼岸
(娑婆世界) (悟りの世界)
娑婆(今、我々が生きている世界であると同時に、苦に満ちた世界)
現代は、それに加えて「末法」の時代。
(当たり前の怖さ)当たり前→感謝しない→傲慢(ごうまん) →怒り。
自分だけが正しく人は間違っている。自分さえ良ければいい。
四苦(生・老・病・死)
※ 彼岸に到達する為に、自分自身が六波羅蜜の修行を積む。
※ 六波羅蜜
1布施(物を差し上げること。させてもらうこと。)
2持戒(身をつつしみ、常に反省すること。)
3忍辱(平静にして耐えしのび、いからない、怨まない)
4精進(善い事をし、悪い事をしないようにいつも努力し続ける)
5禅定(感情をしずめ、心を安定させること)
6智慧(すべてのものを生かしている大いなる命を把握すること)
生まれ変わる度に六波羅蜜の修行を繰返し、もしかしたら仏になれるかもしれない? 煩悩と菩提は相反するもの。(爾前経)
※ 彼岸の中日は真西へ日没。
日没→人の死・死後を想像
真西→西方極楽浄土
※浄土とは(仏が存在し、そこで常に教えを説いている国土を浄土という)
法華経の考えから観た彼岸。
此岸 =  彼岸
(娑婆世界) (悟りの世界)
釋尊は娑婆世界に於いて、常に教えを説いている。即ち、この娑婆世界が浄土
である(寿量品で説明)娑婆即寂光。
※ 釈尊は我々に、親が子を想う心に気付いて欲しい。親(仏)の心を聴いて欲しいと思ってられる。
※ 受持=受け持つ。

受ける=釈尊の心を瞬間に受け取る。 持つ=持続(継続)すること。
※自分自身が法華経を受持し成仏する事で、先祖も成仏する事が出来る。

法事後の食事

お食事
お食事

 

法事後、施主さんのご好意で参列した皆さんと一緒に食事をする機会がある。先日も、一周忌法要後皆さんと共に食事を頂いた。通常、我々僧侶は上座の席に案内され、次に親族の重鎮である方達が私の回りに案内されるケースが多い。最近は、法事そのものが縮小されているので家族のみという事も多くなった。その場合は、施主さんが私の側に座られる事になる。

法事の後席(食事)は、ただ食事や歓談をするだけでは無く、故人にまつわる話しが沢山出てくるものである。故人を思い出し、皆さんで故人の話しをする事は、故人の魂が家族、親族の間で生き続けている証であると思う。たまに「法事は何回忌まですればいいのですか?」と尋ねられる事がある。このような質問をする事は、既にこの方の中には、故人の魂が生き続けておらず故人の魂も彷徨える魂になってしまっているのでしよう。法事に於いて、供養と共に故人を偲ぶ事が、皆さんが故人の魂を確認する意味もあるのではないかと思います。その姿を法事に参列した皆さんが現世(この世)で経験する事によって、自分の死後、家族、親族に供養され、偲んでもらう事で「現世安穏 後生善処(げんせあんのん ごしょうぜんしょ)」を確認する事だと思います。

また、後席に於いて日頃疑問に思われている事の質問をされます。これは、食事の席という事もあり、緊張感が薄れている事もあるでしよう。私は、とても大事な布教の場と捉えています。何故ならば、質問内容が本音の部分が多いからです。素直に質問され、私の答えも素直に聴いて貰える。そんな環境が、この後席には存在します。

今回の後席では、施主さんのお孫さんと仏教の教えについてお話する事が出来ました。この事は、次世代に教えを繋いで行く大事な機会でもあります。これからは、私の回りに重鎮の皆様だけでは無く、若い方達に回りに座って貰いたいと考えます。

遺体の取り違え。

実際にあった茨木市内某大手葬儀社のミス。

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(知人である日蓮宗寺院住職の記事をコピー)
今日会った住職から、恐ろしい話を聞いた。
少し前に檀徒さんが亡くなったのだが、生活保護世帯で、身寄りも無く、葬儀も出来ないから炉前経(火葬場の窯の前でお経だけ上げる)だけで済ます簡単なものだったのだが、炉の前に運ばれてきた棺と一緒に親族らしいご夫婦が一緒に来られた。ところが、その人の顔に全く見え覚えがなく、炉の前に書いてある名前も檀徒さんのものではなかったので、火葬場の方に、「ちょっと、顔を見せてください」と依頼したところ、「ご親族には確認済です」と言われた。でも気になるので、「悪いけど蓋を開けて」と頼んだら、しぶしぶ棺の蓋を開けてもらえたそうだ。すると、全く知らない人だった。
同行した葬儀社に問いただすと、その日に通夜を行う死体と間違ったという事で、大慌てで交換されたそうだ。(火葬場と式場が隣接している会館)一緒に同行したご夫婦も、「今夜が通夜なのに、なぜ火葬場に運ばれるのか不思議に思ったそうだ」。
菩提寺の住職が、故人を知っていたからよかったものの、葬儀社に依頼されて一見客のように扱う僧侶だったら、故人の顔も知らないだろうし、喪主にしても、葬儀をしてもらうために初めて会う僧侶だから、今回のようなトラブルは防ぎようがない。ちょっと間違えば、死体の取り違えで、通夜や葬儀の前に火葬してしまうところだったと話されていた。

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このような事態が、これからどんどんと増えて来るに違いない。

葬儀=商売として捉えている葬儀社の乱立。葬儀=業務として儀式をないがしろにする葬儀社の乱立。

間違って自分の身内が、火葬されないように確認が必要になって来た。

東京七月盆

毎年恒例の東京7月盆のお手伝いの為、7/7から上京しました。
7/8 お手伝い先の池上厳定院盂蘭盆施餓鬼会法要。

厳定院本堂
厳定院本堂

今年はお盆の時期に台風が関東地方に上陸するとの予報が出て、お盆のお参り開始日を7/12からにしたものの、台風の上陸は無く、いつもより遅いお盆のスタートとなった。12,13,14,15日と蒸し暑かったものの雨に降られず順調にお参りを終えることが出来た。

お盆お参り中
お盆お参り中

山門修復

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10年ほど前から、修復が必要だと思いつつ現実から目を背けていた感があった。(というのも、この頃から盆と正月の年二回のみ開門)しかし、今年の正月に門を開く際、門扉を開ける事が困難な状態まで柱の腐食が進行したのだった。さすがにこれでは門扉を開ける事が不可能な状態が近々には来ると予測できた。山門修復を考えるにも、まずは修復費用をどうするか?  これが最も頭が痛い。考えていてもラチが開かないので、寺社建築業者へ見積もりを依頼。新しく立て替えれば一千万円。立て替え修復600万円。理解は出来るが・・・高い。

私の考えは、新しく山門を立て替えたところで本堂を含む寺観とマッチするのか?(山門だけが立派すぎる)。現在の山門の修理を依頼しているのに立て替えを進める事に違和感を感じた。それも、業者の考え方の根底に檀家さんからの寄付で修復費用を賄うという考えがあるからだ。相手もプロなので、寺側と檀家側の折衝に立会いも数多く経験しているからであろう。

という流れから、日ごろから当山の修理をお願いしている工務店に相談したところ、快く私の想いを汲んで頂いて修復計画を立ててくれた。費用もかなり抑えてくれ、修復でありながらも以前の山門から立派な山門に生まれ変わった。

この修復は、元総代藤岡博さん、奥様藤岡益子さんお二人から、和歌山にある藤岡家の墓を当山に改葬し永代供養として山門修復をお願いした。以前から、山門修復を気にかけてくださっていた事から私の申し出を快く承諾して頂き、藤岡家先祖代々之霊永代供養として山門修復費用全てをお布施して頂いた。

巷で溢れる永代供養ではなく、これが本来の永代供養であると思う。