BONZEブログ

"日々のこと"の記事一覧

壽晃院日徳上人遷化

かねてより末期癌でホスピスに入院していた叔母(壽晃院日徳上人)が、6月5日遷化(亡くなる事)。

 

亡くなる当日、午前7時病院に「血圧が70まで下がって来た。直ぐに病院へ来て欲しい」との連絡があった。お参り一軒を終わらせ、午前8時前病院到着。叔母の様子は額に汗をにじませ呼吸が苦しそうだった。額の汗をタオルで拭い、叔母の手を握って妙法蓮華経如来寿量品第十六久遠偈を一読した。

 

その間、叔母の開いた眼に私の姿が映り込み、呼吸が苦しい中、叔母の手を強く握ると、最期の力をふりしぼって私の手を握り返してくれた。叔母の手を見ると指の爪は青黒く変色し始めていた。少しでも苦しい呼吸を緩和してあげたく、水差しからお茶を少しずつ口元から注いだ。そうすると、少量の水分が叔母の喉に達し荒かった呼吸が少し落ち着いた。

 

様子を確認する為看護士が来られ、血圧を計るも、血圧計では血圧が計れなくなっていた。心臓の鼓動も一定では無く不整脈である事を教えてくれた。水分を摂った事で荒かった呼吸から、弱々しい呼吸に変わった叔母の手を再び握りお題目を唱え臨終の時間を共有した。

 

少しずつ呼吸が弱くなり、回数が減っていった。同時に握った手は冷たくなり始め、それでもかすかに呼吸があった。まさに虫の息と表現されるように、喉のあたりの筋肉がかすに振動した状態になった時、ナースコールを押した。看護士さんが到着後聴診器をあて心停止した事を確認してくれた。午前9時31分担当医の死亡診断を受けた。

 

病室へ、お世話頂いた看護士さん達が何人もいらっしゃり、「長谷川さんは、身体が苦しいであろう時も苦しく無いと言い、全く我々の手を患わす事も無く、我がままも言わず、本当に出来た方でした」と話してくれた。

30代で出家得度して55年間。ずっと一人で生活して来た叔母だった。全ての判断を自ら下さないとならなかった事から、どんな事にでも覚悟があったのだと想像出来た。私に自らの最期を託してくれた事も覚悟のうえだったのであろう。

臨終に向かう時間を叔母と共に共有し、僧侶である事はどれほどの覚悟が必要であるかを教えて貰った。この貴重な経験を単なる時間経過の一つの出来事と考えず、今後の糧とし日々の生活、生き方を模索していきたい。

 

妙政法尼ありがとう。

 

南無妙法蓮華経

 

合掌

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方針転換

先日、当山墓地の件で方針転換をする事にした。

当山墓地は30年前、氷室村墓地に隣接する土地を購入し新規造成された。当初、先代住職は檀家を増やす目的で日蓮宗の方のみに墓地永代使用権(当山に墓碑を建立出来る権利)を与えていた。しかし、墓地完成後、当時の檀家は墓地永代使用権を求め、当初の目的は達成したものの、その後、墓地永代使用権を求める方が無く、総代との協議の結果、墓地永代使用権を与える区画を限定し、宗派問わずに墓地永代使用権を与える事になった。その後、現在に至迄、日蓮宗の方は少なく、他宗が占める割合が圧倒的に多くなった。時代の流れで、墓地永代使用権を得て墓碑を建立しようと考えている施主は、寺所有の墓地と業者が経営する墓地の違いについて考慮する事なく、どちらも同じ墓地という認識である。寺が所有する寺墓地は、その寺の宗教法人が取り消されて無くならない限り存続する。しかし、業者が経営する墓地は、縁故、活動していない宗教法人を買取ったりし、宗教法人の名義を借りて造成し、その後業者が管理運営している。流れを知ると業者が倒産した場合、果たして、名義貸しした宗教法人が管理運営出来るのか? 甚だ疑問である。

時代の流れで、相手方個人の考えを優先し他宗の方の墓地永代使用権を認めて来たが、方針を転換する時期に来たと感じる。日蓮宗の場合、墓碑正面にお題目(南無妙法蓮華経)を刻む場合が多い。これは単なる墓標では無く、その家の宝塔を建立した事になる。

是中皆応 起塔供養 所以者何 当知是処 即是道場

~是の中に皆塔を起てて供養すべし 所以は何ん 当に知るべし 是の処は即ち是れ道場なり~
『如来神力品第二十一』

他宗の方であっても、当山と縁を持ち、お付き合いが始まった中で法華経への信仰が芽生える方がおいでに成るかという期待があったが、結果的にそれは皆無であった。一度、お彼岸法要の案内を出したが「寺が檀家に成れといって来た」と、石屋を通じて耳にした。時代は三離れ(葬儀・寺・僧侶)に入り、墓地に対する考えも大きく変化した。逆に時代がそうであれば、当山としてもはっきりとした意思を現し、檀家として縁を結んで頂く方向性を示す事で、法華経の素晴らしさを伝え、先代住職の考えに立返り法華経を信仰する方を増やす努力をしたい。

 

平成26年度春季彼岸法要

明日24日お彼岸明け。
今年の彼岸法要は、本日(23日)で全て終わりました。
18日伊丹市本泉寺様。
21日大阪市宗林寺様 午後大阪市薬王寺様
22日島本町妙本寺様
23日当山 午後大阪市妙福寺様

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妙福寺様
妙福寺様

宝塔の化粧直し

当山の入口と門前にお題目が刻まれた宝塔がある。
入口にある宝塔は享保年間に建立された古い宝塔。門前にある宝塔は30年程前に建立された宝塔。今回、この二つの宝塔に刻まれた、お題目の文字に金箔を貼り付け、化粧直しを行った。お題目部分に金箔が入った事で、再びお題目を世間の皆さんに見ていただけるようになった。 
施主 山崎志げのさん
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平成26年度星祭り節分会

2月2
2月2

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2月2日(日) 当山星祭り節分会を厳修致しました。
沢山の檀信徒の皆様にお参り頂き、ご祈祷を受けて頂きました。
当山の星祭り御守りは、オリジナルで製作したものです。日々、御守りは身につけて頂きたい願いから、クレジットカードサイズになっています。財布、定期入れ等にジャストサイズです。この御守りを製作後、皆さんに身につけて頂けるようになりました。

互助会の実態

かねてより当ブログで、葬儀に関して多くの記事を書いてきました。ですが個人のブログでは、下手をすると相手への誹誹謗中傷にもなりかねないので、実際に私自身が見聞きした事だけを書いてきました。今回、ご紹介する記事について、私は数年前から把握していました。しかし、上記に記したように、証拠がなければ相手への誹謗中傷にでしかありません。それを考え、ブログで記事にするのはやめていました。しかし、この記事がネット上に流れた事で内容を紹介する事にしました。

普通、世間では、TVCMを出すほどの会社だからと人は信用するものです。また、会社側もある面、信用を得る為に広告を出すのではないかと思います。しかし、葬儀業界は大手であればあるほど信用出来ない業種といえます。大手葬儀社の葬儀は、互助会員の葬儀が大半を占めているのが現状です。その互助会のシステムが、内部告発により暴かれています。この記事を読まれ、どのように考えられるのか?私は、今後互助会に入会する方が少しでも減るように記事をアップ致します。

http://www.geocities.jp/gj6yffj65/

7~8年前、実態を知った私は、せめて当山檀信徒だけでも互助会の罠にかからないように「寺葬」を整備した次第です。

広宣寺が提案する葬儀 http://www.kousennji.jp/sougi.html

妙福寺様へお手伝いに行って参りました。

年が明けてもう三日も経ってしまいました。昨日は、大混雑の京都市内へ、当家墓所がある本山本満寺様へお参りして来ました。京都では正月にお墓参りをする方も多く、沢山のお参りの方がいらっしゃいました。

本日三日は、毎年お手伝いをさせていただいている大阪市南森町妙福寺様へ。毎年恒例妙福寺交通安全祈願の修法導師を務めさせて頂きました。車用のお札にご祈祷をし、今年一年、祈願主の交通安全を祈願致しました。

妙福寺様御寶前にて修法
妙福寺様御寶前にて修法

新年合掌

あけましておめでとうございます。
昨年末はブログの更新が滞ってしまい申し訳ありませんでした。
今年もボンズブログを宜しくお願いします。

元旦8時より新年祝祷会を厳修致しました。NEC_0809

増加

今日午前9時15分から葬儀式を厳修した。
式前の打合せを司会者としたやりとりの中で、最近、大手葬儀社の葬儀件数が減少しているのではないか?という話しになった。時間に余裕がある時、たまにこうして、現場で従事されている方と話しをする。会話から、いわば最も新しい情報を得る事が出来る。冒頭の件は、私も感じていた事で、実際、司会業は派遣が殆どだ。その仕事が減って来ているという事だった。転職も考えないといけなくなっていると聞き驚いた。しかし、話しによると何処の火葬場もほぼ毎日いっぱいだという事だ。葬儀が減っているが、火葬は通常通りあることは、いよいよ、葬儀の流れが直葬にシフトして来た事が考えられる。
この直葬だが、人によって受け止め方は違うものの総じて後悔の念が残るとも聞いている。葬儀に従事する人達から、直葬はやめて欲しい。という話しを良く聞く。彼等もまた直葬が異常な行為だと感じている事にほかならないのかもしれない。

太古の昔より、弔うという事は人間として生きた証しだとされて来たと思う。やがて物質文明になり、お金とモノが手に入れば幸せだということを植え付けられて来たのではないか?それよりも精神的充実感を得られなければ幸せと思えない。

葬儀もまた商売として成り立つものではないと思う。ある面、直葬の増加は、今だに葬儀を商売として考えている葬儀社への抵抗なのかもしれない。

信仰

昨日早朝、「主人が亡くなりました」と訃報が入った。故人は、檀家という括りに属さない方。「葬儀は、主人が家族葬でして欲しい。と生前に申していました」という事だった。奥さんの年齢(80代中盤)を考えると、主人が妻に葬儀の心労を少しでも減らしたいという配慮だったと思う。

十数年前、葬儀社が「密葬」の代用用語として考え出した「家族葬」というネーミング。
いざ、葬儀を出す段になると喪主は、その定義に戸惑いを憶える。少し前では会葬者を減らし家族・親族だけで執り行う意味合いがほとんどだったが、今では「家族葬」=「葬儀費用が安い」と変化していっている。葬儀社のうたい文句にのり、家族葬を出したものの葬儀社が広告で出していた値段とはかけ離れた請求が来る事が、今でも多々ある。

日蓮大聖人は御遺文の中で「臨終の事をまずなろうて候べし。後に他事を習ろうべし」とおっしゃっている。

瀧本光静上人の解説では。

= まず先を定めよ。
逆算して今を生きよ = 日蓮

今さえ良ければ。
も悪くないけれど、それは
「今が楽しくって良い状態」
の時だけ通用する価値観。

「臨終」終わりに臨むこと。いつか迎える時の為に今と、自分の最期を考えないとならないと思います。