坊さんも苦しんでいる?

11月8日第49回教化研究会議が大阪市内で開催された。

鈴木隆泰先生 基調講演「仏教におけるいのちとは」

「いのち」と、ひとことでいっても人それぞれの考えによって現れは変わるだろう。

心臓とイメージする人もいるだろう、魂とイメージする人もいるだろう、霊魂とイメージする人も

いるだろう。しかし、これは「いのち」に自分の意識が向いた時にイメージされる。意識が向かない

限り、日々の生活の中で「いのち」を意識することはないと思われる。

なぜなら人は日々の生活に追われていて、一旦立ち止まって「いのち」を考える余裕がないのだ。

基調講演で印象に残った言葉は「信」であった。

宗教の教えは「信」に支えられている。「信」を持つ人によって継承されているのではないか。

いつの時代もそうだと思うが「信」がない人は存在する。

現代は宗教的な「信」があると、その人は変わった人と見られる傾向があるのではないかと

思う。その傾向からか宗教的な「信」を持たない方が増えてきているのではないか。

なぜなら「仏教離れ、寺離れ、僧侶離れ」が加速していることからもわかる。

だが、仏教離れというが実は仏教に興味があるという人は多い。いつの世も仏教は

人々の苦しみを和らげ、軽くし、なくする教えなのだ。次に寺離れはどうなのか?現在も寺は

檀家制度によって生きながらえている。しかし、高度成長期に若い世代が都会へ移動したことで

家制度から核家族という家族形態が変化したことで、地方寺院は過疎化による檀家減少に直面

している。都心部では核家族化による檀家制度の崩壊による檀家減少が起こっている。

最後に僧侶離れだが、私もその一人だが、世俗に染まっている僧侶像が世間に溢れているからではないか?なぜなら寺を維持していくことを第一に考え、法務の業務化が進んでいるのではないか。

それは、お坊さん便等の僧侶派遣業に現れている。しかし、派遣業に従事している僧侶は派遣業務を布教だと考え従事しているという。それを一概に批判できるのか?いやできない。

なぜなら法務が業務になっていることに気づかない、私も含む大多数の僧侶の存在があるからだ。