身延山久遠寺へ
10月28日 年に一度の当山団体参拝です。今年は総勢17名で身延山久遠寺へ。午前7時摂津富田駅集合。京都駅から新幹線で一路静岡へ。静岡にて在来線に乗り換え11時身延着。直ぐにご廟所(日蓮大聖人のお墓)へお参りし、午後1時より輪番奉仕法要を勤め、15時半身延発で帰路へ。12時間の弾丸ツありますが、参加者の皆さんと共に日蓮大聖人のもとへお参りさせて頂きました。
10月28日 年に一度の当山団体参拝です。今年は総勢17名で身延山久遠寺へ。午前7時摂津富田駅集合。京都駅から新幹線で一路静岡へ。静岡にて在来線に乗り換え11時身延着。直ぐにご廟所(日蓮大聖人のお墓)へお参りし、午後1時より輪番奉仕法要を勤め、15時半身延発で帰路へ。12時間の弾丸ツありますが、参加者の皆さんと共に日蓮大聖人のもとへお参りさせて頂きました。
葬儀後「四十九日の法要が三か月(みつき)にまたがってしまうので三十五日で切り上げて下さい」という依頼がたまにあります。「根拠は何ですか?」と尋ねると「いゃ〜、三ヶ月(みつき)にまたがると悪いと聞いています。」との答え。過去の事例から、ほぼこのやりとりに終始します。それも決まって喪主ではなく、親族がこの事を指摘する事が多く見受けられます。
これは四十九日が、三ヶ月(みつき)にまたがる事を「始終苦が身につく」(しじゅうくがみにつく)といって嫌うのである。「始終苦」は「四十九」で、それが三ヶ月(みつき)にまたがることから、身につく(みつきにつく)と解釈するようです。これは、苦しみが年がら年中つきまとうという意味だそうです。これは語呂合わせから出た俗信(迷信)。雑学的見地では、江戸時代ぐらいから民間に広まったと言われています。
こんな迷信(俗信)を信じていた方には改めて頂き、このような迷信(俗信)が広まらないように我々僧侶も正しい事を伝えていかなければなりません。
思い込みとは恐ろしいものだ。今朝、机の上に置いてあった護持会領収書をチラっと見た。それも名字の部分だけを。たまたま、同じ名字の檀家さんが二軒あり片一方の月参りは毎月7日、もう一方は20日だ。寺を出て徒歩へ檀家さん宅へ。玄関を開けて挨拶するも返事がない。日頃から早起きな奥さんなので少し外に出られているのかも? と思い仏間へ。
あれ? なんだかお参りの用意がされていないと思いつつ、まぁ、このままお経を上げさせて頂こうと灯明をつけ、線香に火をつけ終わり、合掌したところへ、玄関で「エーッ」と声がした。あれっ? と思い、仏間から顔を出すと奥さんが「お上人〜、今日お参りだったの?」それを言われても私はまだ気づかず「ウチのお参りは七日やよ〜」と指摘を受けて。ハッと気づいた始末・・・
いゃー まいりました。最近物忘れがひどい・・・私の失敗談でした。
檀家さんの葬儀を、市内にある大手葬儀社セ○○会館で行った。
この葬儀会館は、正面玄関を入った所に喫茶室兼休憩所がある。今回の葬儀は一階だったので通夜、葬儀時共に騒がしく厳粛な雰囲気を保つ事が極めて難しい。葬儀は、お亡くなりになったら、直ぐに出さないと、いけないもの。と思われている方が多いのですが、法律で24時間以内は火葬出来ませんが、それ以降であれば、数日後に葬儀を出しても問題はありません。以前は、葬儀委員長という役の他人が仕切ってくれたので、葬儀社との交渉等全てまかせる事が出来ました。今は、それも無くなり、家族が大変な中、全てを執り行わなければなりません。
やはり、自分の最期は、自分で考え後に残る親族に託すことが大事な事だと思います。
しっかり考えよう! 自分の最期の送り方。
新年明けましておめでとうございます。
今年は、もう少し頑張ってブログを書きたいと思います。
今年も元旦より、新年祝祷会を檀信徒の皆様と共に厳修致しました。
今年も宜しくお願い致します!
以前のブログにてご紹介した「広宣寺が提案する葬儀」の詳細をアップ致しました。
寺が提案する葬儀形態がどのような反響をもたらすのか楽しみです。