BONZEブログ

令和2年度春季彼岸会法要

本日午前10時より 当山令和2年度春季彼岸会法要を厳修致しました。檀信徒の皆さんは法要時マスク着用。本堂内を換気しての法要でした。お参りはいつもの半分くらいの人数でしたが、この状況の中皆さんと共に法要を勤められて良かったと思います。

14時より 大阪市妙福寺様春季彼岸会法要に出仕します。大学卒業後37年間春秋彼岸、盂蘭盆会、お会式に出仕していましたが、干与人の交替によりお手伝いが終わりました。今回コロナウィルスの関係で出仕寺院の法要取り止め等があり、数年ぶりにお声をかけて頂きました。

妙福寺様

櫛 クシ

今日は春分の日。お彼岸の中日です。中日は大阪市内ニか寺の彼岸法要へ出仕するのですが、一か寺は彼岸法要中止、もう一か寺は無檀家法要ということで中日に法要への出仕がないなんて、私が僧籍取得後初めてのことです。22日は当山の彼岸法要を執り行うことで、それに向けて散髪に行ってきました。今日はハヤシさんのお店で珍しい場面に遭遇しました。それはクシ屋さんがクシを売りに来ていることでした。蔵本君の説明では、今ではクシ屋さんが来ることが珍しく、そのクシ屋さんが持参するクシはクシ職人手作りのクシだということです。今ではクシ職人は全国に数人だそうで、手作りのクシは使い勝手や、クシの通りが量産品とは比較にならないということでした。値段もクシの材質(鼈甲だと数10万)により違うということです。マスターも「テンションが上がるんですわ!」と満面の笑みでした。

櫛の数々
テンションが上がる!

 

17日彼岸の入り

本堂の外で法要

今日から彼岸の入りです。
毎年彼岸の入りに法要を執り行なわれる、伊丹市本泉寺様の法要に出仕しました。
前日奥様に確認メールを入れたところ「明日は境内で行います」との返信があり、えっ?境内ですか。と内心思いつつお寺に到着すると本堂前に須弥台を設置し、その横に塔婆を並べた置き台、導師席、役僧席、その後に一般焼香台、檀信徒席と配置されていました。差定は「コロナウィルス対応版」で法要を進行。お天気は良かったのですが、時折り吹く風が強かったですが、約100名(通常200名)の檀信徒と共に無事彼岸法要を終えることができました。

平和の祈り

午前10時30分より 立正佼成会豊中教会会員の皆さんと「平和の祈り」を当山で開催しました。なぜ当山で平和の祈りを開催することになったのか?今年春に縁あって立正佼成会会員の方の葬儀を当山にて勤めたことがきっかけでした。平和の祈りとは宗教.宗派にとらわれず共に平和の祈りを願うつどいを、1970年頃から続けられており、そのつどいを各教会単位で行なっているそうです。今回、寺葬儀式に会葬していた支部長さんが寺葬儀式に参列し感動されたことから、当山での開催を希望されたことで実現しました。
今回平和の祈りの流れは、私から提案を行い法要、法話、対話の会と三部構成で行いました。
法要は立正安国世界平和を祈願し、法話「六道と意識」、対話の会は参加者23人を4グループに分けM上人、S上人、N上人と私が各グループの進行役をつとめました。対話のテーマは「六道と意識」の法話から六道や意識を考えて頂きました。
私が担当したグループでは、お一人の女性が幼少期の体験を語られたことから、その語りをベースに六道を深めていきました。体験を語られた女性の意識の志向性は何を明らかにしたいのか?更に問いかけ対話を深めました。
会を終えての私の感想は、法要中は緊張感があり、対話の会では終始対話が途切れること無く、皆さん考えること、語ることを楽しんでおられました。
未知なる取り組みでしたが開催してよかった、皆さんの役に立てて良かったと思えました。

 

 

 

坊さんも苦しんでいる?

11月8日第49回教化研究会議が大阪市内で開催された。

鈴木隆泰先生 基調講演「仏教におけるいのちとは」

「いのち」と、ひとことでいっても人それぞれの考えによって現れは変わるだろう。

心臓とイメージする人もいるだろう、魂とイメージする人もいるだろう、霊魂とイメージする人も

いるだろう。しかし、これは「いのち」に自分の意識が向いた時にイメージされる。意識が向かない

限り、日々の生活の中で「いのち」を意識することはないと思われる。

なぜなら人は日々の生活に追われていて、一旦立ち止まって「いのち」を考える余裕がないのだ。

基調講演で印象に残った言葉は「信」であった。

宗教の教えは「信」に支えられている。「信」を持つ人によって継承されているのではないか。

いつの時代もそうだと思うが「信」がない人は存在する。

現代は宗教的な「信」があると、その人は変わった人と見られる傾向があるのではないかと

思う。その傾向からか宗教的な「信」を持たない方が増えてきているのではないか。

なぜなら「仏教離れ、寺離れ、僧侶離れ」が加速していることからもわかる。

だが、仏教離れというが実は仏教に興味があるという人は多い。いつの世も仏教は

人々の苦しみを和らげ、軽くし、なくする教えなのだ。次に寺離れはどうなのか?現在も寺は

檀家制度によって生きながらえている。しかし、高度成長期に若い世代が都会へ移動したことで

家制度から核家族という家族形態が変化したことで、地方寺院は過疎化による檀家減少に直面

している。都心部では核家族化による檀家制度の崩壊による檀家減少が起こっている。

最後に僧侶離れだが、私もその一人だが、世俗に染まっている僧侶像が世間に溢れているからではないか?なぜなら寺を維持していくことを第一に考え、法務の業務化が進んでいるのではないか。

それは、お坊さん便等の僧侶派遣業に現れている。しかし、派遣業に従事している僧侶は派遣業務を布教だと考え従事しているという。それを一概に批判できるのか?いやできない。

なぜなら法務が業務になっていることに気づかない、私も含む大多数の僧侶の存在があるからだ。

 

 

 

 

 

生きる

天災がおこらず平凡に日々を送っていると、生きるとはどういうことかと考える。天災がおこり、日々の生活が失われてしまった時に、生きているとはどういうことなのかと考えてしまう。

受け難し人身(にんしん)を受けることは、同時に苦しみを伴うものなのか。

祇園で

昨夜は「お坊さんナイト」があり、祇園ギャザーに行ってきました。

今夜の担当僧はOさん。
彼女とは傾聴僧の会、対人援助研究所で共に学んでいる仲間であり、
ソーシャルワーカーとしても活躍されている方です。

恋は煩悩。
恋の結末は「歎異抄の中のお言葉に救われた」
仏教的見地から恋を観る。

途中で席を立ちましたが、更に話しは深くなっていったのか?
うーん 残念!

大塚さん お疲れ様でした!

 

長い付き合い

K上人とは小学生の頃僧風林で出会い、大学四年間を共に東京で過ごし、かれこれ40年の付き合いだ。これも同じ僧侶でいるということと、趣味趣向が合っていることも長く続いている要因のひとつかもしれない。

聴かない人

毎月月例法要後、僅か10分弱の法話をしている。

良く聴いてくれる人、聴いているかどうかわからない人、聴きたくない人、聴かない人の区別ができる。聴いている側はわからないと思うが、話す側にはその姿勢は良くわかるのだ。なぜなら絶対数が聴く側なので、話す側の気持ちを理解することは不可能だからだ。

聞くと聴くの違いは何だろう?

聞くは、音声のみを聞いている。

聴くは、耳で聴き、目で聴き、心で聴く。相手の方の聖なる語りを聴く。

聞くではなく、聴く姿勢で法話を聴いて頂ければな。それには、法話の内容をより良いものにしなければならない。